ヨーガの学びの段階について

 こんにちは。今日はヨーガの学びの段階について書いてみようと思います。まずは、現時点での僕が考える主観(ヨガ的に言うと現在のブッティ(知性)を通して捉えた世界観)であることを最初に断っておきます。

 まず初めに段階というと一番わかりやすいのが、アーサナの進捗だと思います。「私は~アーサナまで練習しています。」とか「あなたは何アーサナまで進んでいますか。」あるいは「彼はちょうどprimary seriesを修了したところです。」というような会話、よくしませんか。確かにアーサナの進捗はヨーガを学ぶ準備がどこまでできているかの目安の一つとなります。先のアーサナに進めば進むほど体の詰まりは取れ、長時間座って瞑想するだけの筋力や体力がついてくるからです。

 しかし、アーサナを熱心に行っている人が陥りやすい罠があります。それは、アーサナだけをひたすら実践することでヨーガのゴールにたどり着けるのではないかと勘違いすること、もしくはゴールはよく分からないけどただ楽しいからアーサナの練習をしている(アーサナの先生は巷にいっぱいいるけど、ヨーガを教えてくれる先生はなかなかいないという悲しい現状の結果)ということです。アーサナは、ヨーガを学ぶための準備ですから、準備だけしても本質にはたどり着けません。せっかくアーサナの練習をしているのにもったいないと思います。

 話を戻すと、アーサナの進捗と同軸でもう一つ大きな枠組みで捉えたヨーガの学びの段階として皆さんもよく知るアシュターンガ・ヨーガがあります。アーサナがある程度まで進み肉体が整ったら(intermediate seris修了が目安だそうです)、次はプラーナーヤーマを通して、アーサナよりも高度な技法を習得していきます。そして、プラーナーヤーマをある程度習得したら、いよいよヨーガの本体である瞑想の実践を始めていきます。この時、プラーナーヤーマ、プラティヤハーラ、サンヤマ、そのそれぞれにもアーサナの時と同じように段階があります。

 ここで、個人的に面白いと思ったのが、学びの段階によって良しとすることが正反対になる場合があるという事です。例えばヨーガスートラ第一章第二節「ヨーガス・チッタ・ブルッティヒ・ニローダハ(ヨーガとは心の働きを止滅することです。)」があります。この言葉が意味を持つのは、瞑想を通して宇宙の真理を理解する段階に近づいた時だと思います。その段階に達するまでは、ものごとを思考したり、好きな音楽を聴いたり、美しい景色を見たり、幸せを感じたり、多くの人生経験を積みながら心をサトヴィックにしていくのが良しとされています。最終的にサットヴァさえも超えたところに本質はあるのですが、僕らが歩む段階の大部分はサットヴァを最上と捉えています。

 ゴールは単純でシンプルですが、白か黒かという単純ではないところが、インドで大昔から育まれてきた世界観の面白さだと思います。

 

 

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